「個性」を認められるための「前提」
「例えばこのクラスのみんなが『晴』という漢字を書いても線のとめかた払いかたは絶対に同じにはならない。それが個性です。みんなが『晴』と書く中で『雨』と書いて、僕はみんなと違うんだ!すごいだろう!!と言ってもそれは個性とは認められません」という小学校の担任の先生の話はよく覚えている
— 原田 (@harudajin) 2015, 11月 28
私の意見はこれでした。
@harudajin 要するに逸脱する者はただの異端者ですか。
— さみ@おベイちゃーん♥♥♥ (@cabsammy) 2015, 11月 29
このツイートによると、好意的に使われることが多い「個性」とは
違和感なく集団のパーツになりえていて初めて認められるもののようだ。
認められないそれ、もあるわけでそういうのは区別がいるな。「固有性」とでもよぶかね。
でもあるあるなんだよなこれ。
わかり易い例が いわゆるADHDなどの「発達障害」、「精神障害」
患者の「固有性」が排斥される要因になりその結果、いわゆる「二次障害」を負うケースもざらざら。
そういう人はストラテラやロナセンとかのんでどうにか集団に適応してください という社会の対応に端的にあらわれてますやん。
要するにツイ主の
個人的な話だけでなく、「集団に埋没し、一部となりえていて」はじめて
(集団に問題を起こさない)個人の「固有性」が「個性」として認められる場面がほとんどだなあという気がする。
集団を乱すレベルの「固有性」は「異端」扱いをされ、最悪排除されていくんですわな。・・・
そう、個性には「認められるもの」
と「認められない物」があるわけで、それは集団、社会への有益性によって決まるというわけなんですな。はー世知辛い。
一応誤解のないように主さんの解釈も貼っときます
私の中で先生の話は「決められたルールや題材を無視して違うことをすれば当然目立つ事ができるけれど、それでみんなを納得させるのは難しい」だと思ってたんだけど、twitter上ではいろんな解釈があっておもろいな。20年越しの再発見か。
— 原田 (@harudajin) 2015, 11月 29