糸奇はな氏の言うように『独り善がりな創作に意味はない』のか
[独りよがりな創作に意味はない]
かのOne of most famousカビクラ、糸奇はな氏のお言葉である。
ROLL PLAYは彼女の人生観をストレートにに表した曲だ。
彼女は「必要とされる」ために変遷し、「必要とされないこと」また「矮小な存在になること」に対し、
恐怖を抱いている。彼女が追い求めるのはおそらく自身の「偉業」であろう。
逆のケースも見ている。自分の殻に閉じこもり、誰も見向きもしない創作を「綺麗」「かわいい」と
客観視された時評価のない事実に反することを主観的に(意地になって)言い続ける人だ。
事に、後者は糸奇氏が最も恐れている姿だろう。
糸奇氏の思考にはある「曇り」があると考える。それは衆目にあわせて成功することを重視するあまり、賛同する他人の数のみで創作の価値を決めつけ、創作に表された「本質」をないがしろにしているということだ。
そのような糸奇氏の考え方に私は違和感を覚える。
「本質」とは、生のままの心の叫びであり、究極的には表した本人しか理解し得ないものである。
糸奇氏は創作について伝達=コミュニケーションに重きをおくあまり、「伝わらない表現」を否定している。
しかし表現とは、伝達の手段だけではない。自己が確かに生きているという、明確な形にした宣言なのだ。
糸奇氏のような、「社会の求めに合致することこそ優れており、そうでないものに価値はない」というのは「社会的優生学」とでも呼ぶべき考え方である。
わたしは「人が生きて、なにかを為すこと自体に価値がある」と考えている。日々懸命に生き考え、その足跡(そくせき)を残すことこそ、表現・創作の本来の意義であると思っている。
本来の自分と社会との求めのギャップ、自分か、社会を重視するかの違いだが、
私は「独り善がり」であることを選ぶ。私はやや特殊な傾向のファンアートを描いている。
クラスタでのメジャーな趣向が好みではないし糸奇氏のような優れた表現能力もセンスもない。しかし受け入れられるために自分を殺して変容し、歪曲させることはいつか心の破綻を招くのが明確だと、わかっているからである。
しかし、「プロのひとりよがり」でいるためには、「自分に嘘をつかないこと」「納得できるまでやり切る」こと、それを大事にしなければならないと思っている。
そのような「ひとりよがり」な心の表現を、受け入れてくれたり見てくれたりする、そういう人の存在は度し難くありがたいものになる。だけど、ついてこれなくなったら去ってもらっていいと思っている。
「本来の自分」でダメなのなら、もうそれは仕方がないことだ。
自分が心から好きなようにやりたいことをする。評価はおまけ。それが私のようなアマチュアにとっての「創作」である。
糸奇氏の場合は前述の「外向き」の考え方がプロシンガーへの道に通じたのであり、その考え方はどのみち必須である。需要に合わないものを出せば食ってはいけない。
要するに根っからのアマチュアか、プロになるアマチュアの信念の違いに過ぎないのかもしれない。
わたしは糸奇氏の言葉で言えば「彼女を必要とする」と想定されたようなぼっち者だが、結論を言うと私は糸奇氏の歌や表現は必要ない。価値観が違いすぎるからだ。
ここからは個人とは関係ない総括。
本来どうぶつとはおきて、ゴハン食べて、ねる そういう生き物なのだけれど
人間は他の動物とは違い、「思考・社会的意志・文化」を形作る+αがあり、
皆、その+αにとらわれすぎる嫌いがある。こうでなければならない、偉業を達成しなければならない、
意味のある存在にならなければならない…など。
その単純な動物的営みに「付加価値(人生の目的、人生の社会的価値etc..)」を無理やりつけようとするからややこしいことになる。
近年、「できない自分を赦す~」「優れていない自分を受け入れる~」というメンタル系ノウハウ本がしこたま出ているが
それだけ多くの人が「本来の自分でいること」を社会(他人)から許されていないことの現れだ。
糸奇氏のような価値観は社会的動物の模範ともいえる思考だが、
人生における大義が生死そのものを分かつ(~でない人間は価値がない、生きていてはいけない)となると、本末転倒である。
少し、動物的欲求で「生きること」自体にも、目を向けたほうがいいのではないか。
人はどのみち死ぬ。そして死んだら名誉は化石になるのみである。
また、彼女は他の世界的大スター、優れた歌手などと比較すると、彼女が恐れる、矮小な存在で終わることも確かである。南無。
参考資料